時代は明治41年。若き国岡鐡造は神戸高商の最終学年になり、従業員たった3名の「酒井商会」へと就職をはたした。神戸高商時代の同級生が大会社で活躍していく中、鐡造は腐ることなく着実に成果を上げていった。そんな折り、実家の稼業が傾き家族が離散状態になってしまう。独立して家族を養いたいと望むも資金のあてはない。そんな鐡造の前に旧知の日田重太郎が独立資金を「貸す」のではなく「あげる」というのだった。